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射影とマラ9がありました

1.射影仮説

 

というのがあります。これは量子力学の「公理系」に入ってたり入ってなかったりあるいは面倒なのでそもそも公理を明示しなかったりと言うこともありますが、
大雑把に次のような感じの「公理系」の一つとして組み込まれます。

  • ある種の確率論をヒルベルト空間の作用素を使って表現します。その方針は以下です。
  • 状態はベクトル射線、またはそのシュミット積和としてのunit-trace positive(密度行列)とします。
  • 事象特に数値ボレル上の事象としての物理量は、射影作用素(値測度)、またはEffect Operator(値測度:POVM)、または有界正規作用素とします。
  • 以上のペアについて確率や期待値は\mathrm{Tr} \rho Eで計算します。(Born)
  • 状態発展はユニタリ、または等長、またはCPTP、または少なくともPositivity-Trace preservingとします。(Schr-Eqは強連続ユニタリをStoneで微分すればいい)
  • PVM\{P_A\}_{A\in \Sigma}測定において、\rhoAの成立をみたときの事後状態を\frac{P_A\rho P_A}{Prob(A)}とします。(射影仮説)

(現代的なスタイルはモリモリ自然な一般化を受けているのでバリエーションを並列しています)
 何が「公理系」じゃと個人的には思ったりするのですが、
大体の物理理論というのは、「現象Xを数学的構造Yで表現しましょうね」「表現出来たら現象側での挙動と理論側での計算を対応させて遊びましょうね」
というものなので、量子力学は単にある種の確率論の数学的構造をヒルベルト空間の作用素を使って表現しましょうというスローガンのことです。
 確率論としての適当な数学的構造と、その外延性および適当な位相構造を考えると、状態と事象の間に完全な双対圏同値が成り立ち(後述)、また物理量だの測定だのといった概念は量子力学と独立に定式化可能な一般的概念なので、
量子力学のコア主張は本質的に

 

「状態空間をunit-trace-positiveな作用素で書きます」ー★

 

または

 

「事象空間をEffect Operatorで書きます」ー★

 

のどちらかを採用しましょうということです。

で、射影仮説です。これどうもかつては相当なバズワードで、ああ~もうそういうバズりが嫌なので物理やっとるのに的な僕としては
いちいち過去のバズりっぷりを調べる気力もないのですが、まぁこの仮説が入っている点について不満があるという意見があったのです。確か。
「不満」と表現するのは、別にこれは矛盾でもなんでもないということです。運用上問題はないけどなんかそぐわねぇなというお気持ちです。
(そもそも何をもって矛盾というのかがはっきりしない程度に量子力学含めた物理学は「物理的意味」ドリヴンじゃん…というと怒られそう)
その不満の代表的な物として、

  • 系の発展の仕方が複数(ユニタリ、等長、CPTP…と射影)あるのが嫌だ。
  • ウィグナーの◯◯系の思考実験:「観測者の観測者を考えると射影仮説の適用ラインが後退するので、状態が観測者依存になるけどいいの?」
  • 波束の収縮系:「観測で状態が瞬間的に変わること自体がキモい」

あたりがあると思います。
それで、YouはShock!な一部物理学者の間で射影仮説やめろキャンペーンが…


 はられたかどうかは知りませんが、射影仮説が特に運用上問題を起こさないことはとっくにわかっているので、射影仮説を他の自然な性質や残りの公理から出して消そうという運動がおこります。多世界だと思いましょうとか、勝手にデコヒーレンス起こす機構があるのではとか、そういう話です。

 僕もまぁその手の本を読んで育ったり育たなかったりしたのですが、今はもう完全にこれ系に関してはドライになってしまっており、
その結果として以下で僕は次の信念にあります。

 

射影仮説は単に、一般化された条件付き「状態」の一例にすぎない。量子力学とは関係なく幾度となく使われてきたし、またあってもなくても(ある意味では)困らない。数学的には自由に考えて良い。

 

 こう言うと、「いや、要るのでは」という見解もあるのですが、それ以前に「要る」が未定義語では…と無限に紛糾し…ォァァ
 先に言い訳をしておくと、本当に射影仮説が要るときというのは「ある事象を観測した事後状態」が欲しい時なのですが、
よく考えればその場合だって、測定値可測空間と状態空間の凸空間テンソル積からの可測CPTP写像とかを連鎖すればいいだけで、
明示的に「ある事象を観測した事後状態」を考えないと困るということはないんですよ。「ある事象を観測した事後のフィードバック操作」という(凸)可測関数を合成すれば済むわけで。
 少なくとも目の前にある現象をモデル化するだけなら特に困らない。
 本来考えられて然るべき数学的構造を考えないで「結果Aを得たときに…」という認識を理論にぶち込もうとするからこんな…こんな…ウッ...

 

 一般化された条件付き「状態」というのは、要するに射影仮説もCPinstも条件付き確率測度もすべて単なる一例になるような、「状態の再規格化操作」がもっと一般的な文脈で考えることができて、確率測度だろうが密度行列だろうが、行う数学的処理は全く同じだということです。

 要するに、普段「条件付き確率」を違和感なく操作している人が射影仮説を拒むことはできないし、逆も然りということです。
で、学習理論だのベイズ推定などがワイワイやってる現在「条件付き確率」なんて珍しくもなんともないよね?
いや、別にいいですよ、「条件付き確率/状態は単なる数学的操作にすぎない」と主張することもまた可能です。確率的推定だって可測写像にすぎないわけですからね。その人が「私は結果Aを得た。その条件下で系は~」と一生言い出さなければ大丈夫だし、
実際に一生そういうことを言わなくても量子力学も確率論も機能するわけです。人生つまんないと思うけど。

 

 釈明します。

 以上の「一般的」というのは一般確率論(GPT)だとか操作的確率論(OPT)とかの修辞と同じ射程を意味します。 

 GPT,OPTとは、もっと緩く自然な公理から開始される一般的な確率論で、古典と量子と、あるいはその他を含みます。もっともプリミティブには「状態」と「事象」という二つの集合があって、そのペアごとに「その状態でその事象が成り立つ確率」を得られる状況があるというような最低限の合意をします。
これは別に良いですよね? 状態と事象とは、そのペアについて確率がわかるものです。おわり。はい。
で、大変面倒なことにGPT,OPTは流儀にばらつきがあり、それぞれの数学的構造の語法や射程がいまいち統一されていないので、具体的な例を挙げる気になりません。そこで僕は圏好きなので、次の最高にクールな随伴圏同値から始めます。

 

{\bf CCH} \simeq {\bf BEM}^{op}

 

ただし相互の随伴関手は\hom(-,I)で、Iは単位区間[0,1]です。

 

 定義をしましょう。\bf CCHとは、ある局所凸位相ベクトル空間のコンパクト凸集合のなす圏です。\bf BEMとはEffectModuleかつ適当な距離位相完備なものの圏です。
 さて、僕のように量子基礎論に脳を侵されていると、ここで疑問が生じます。ヒルベルト空間の時と同様、それらの数学的構造は、物理的意味にmotivateされているか?ということです。

 これに関しては簡単な思考実験で、わりと正当化できます。長くなるので省略しますが、双外延的(状態は事象で識別され、全ての状態で同じようにふるまう事象は同一)であれば、いかなる一般確率論モデル(つまり状態と事象)も、適当な位相を突っ込むことで、\bf CCH,BEMの対象だと思うことができます。要するに憎き(?)ヒルベルト空間のときとは違って、これらを状態、事象の数学的構造だと宣言する十分な理由があるということです。

 \bf CCH,BEMはその数学的操作について物理的解釈と動機を持つということがわかりましたが、具体的な現実の系について、それを表現するCCH,BEMの対象を直接大量の実験をして得るのは非現実的です。
 そこで大抵は、目標とする系を十分記述できるようなCCH,BEMの対象を獲得する発見法的議論を我々は持ち合わせます。その一つは確率論と通常呼ばれているもので、

G:{\bf Meas,Top,CptHaus}\rightarrow {\bf CCH}

です。G(X)はその空間上の適当な確率測度のなす空間です。つまり確率測度の集合を状態とみなす関手です。一方で量子力学

P:{\bf Hilb}_{iso} \rightarrow {\bf CCH}

ヒルベルト空間と等長写像を、密度行列と等長写像の両側積に移す。

とか

M:CP({\bf Hilb}) \rightarrow {\bf CCH}

※上に加えて一般にCPTPを許容する。

とかやるわけです。作用素環で物理やりたいという奇特な人たちは先に事象側を作って

\lt 1:{\bf C}* \rightarrow {\bf  BEM}

とかをやります。この場合の対象はC*代数を単位的と思って、レーヴナー順序で1以下の作用素をEffectModuleと見なします。それから、これだけでは事象や状態の一方だけなので、双対圏同値の\hom(-,I)を使って作っておきます。こうして補完された状態や事象の全てに意味がある保証はありませんが、随伴の普遍性のお陰で、外延性の限りで一番デカイのが手に入るので実証主義的には困りません。

 

 さて、こうした構造を考えたときに、測定とはなんでしょうか? 
 ここで「測定値標本空間の値xを得ること」というのはしばし問題になる勇み足です。なぜなら、もしその一点確率測度がゼロならばその現象は起き得ないことになります。手っ取り早くかつ十分受け入れられるほどに禁欲的なのが、\bf CCH\mathrm{id}_{\bf CCH}Gに関するコンマ圏をとることです。
というのも、この圏の対象は、「状態空間から確率測度のなす空間への凸写像」なので、測定器を用意して、相互作用させ、系を捨てたが、測定器のメーターはまだ見てないという状況にあたります。一生見なくていいよ。

 測定過程も同様で、{\bf CCH}での適当な(例えばLocalTomographyを仮定するとか)テンソル積を考慮した上で、{\mathrm{id}_{\bf CCH}}G \otimes \mathrm{id}_{\bf CCH}のコンマ圏を考えればよいことになります。そうしたらこの対象は出力系に合成された「測定器系」に測定結果をストレージするが、系は捨てていないという状況になります。

 

 ここで測定過程M:S_1\rightarrow S_2 \otimes G(X)を考えましょう。
ここで、G(X)側に、好きな事象Aをツッコミます。それからS2の状態を消去すれば、測定結果がAである確率が得られます。

この確率で、Aを突っ込んだだけの未規格化状態を規格化します。これは事後状態とみなせます。もしS_1,S_2が密度行列であり、
MがCPinstであれば、これはinstrumentの事後状態処理そのものです。これは射影測定過程を含むので、これは射影仮説と同じことをしています。

 

 RN微分を考えることもできます。S_2の任意の事象E_2\in\hom(S_2,I)を評価させると、唯の測定値集合上の測度:規格化されていない確率測度がのこります。
これとS_2の自明な事象で消去した場合と比べると絶対連続なのでRNを行うことができます。このRN微分の結果を、E_2についてCurryすれば、測定値集合インデックスされた状態が出来上がります。
(ただし、単なる測度のときに準じたRegularityがどこかで必要になると思われる)

 

 以上の操作はS_1,S_2が確率測度の凸空間であれば、たんに条件付き確率の処理に同じです。つまり凸空間としてのS_1,S_2の数学的実装が違うだけで、
やっている処理は同じなのです。RNができるのも同じです(これは\bf CCH\bf BEMの双対の直積位相で入れているのも効いている)。

すると、もし誰かが条件付き確率の処理を自然に行っているならば、その人が量子力学での射影仮説を拒む理由は何処にもないのです。
射影仮説は理論に「事後」を考察することを許容することと等価で、これは量子だろうと古典だろうとどの確率論でも同じです。
逆に言えば「事後状態は…」とか「結果Aを得て…」という状況を考えるのをやめれば射影仮説どころかもっと広汎に「事後」概念を捨てられます。

そして捨てたところで失うものはありません。
繰り返しますが、「結果Aを得て…」または「結果xを得て…」という条件下での事後処理を表現したいという動機がありますが、
今測定プロセスがM:S_1\rightarrow S_2\otimes G(X)と書かれているわけで、
このあとに事後処理を表現するXからの可測写像Gで移したものを続ければいいだけだからです。G(X)\otimes S_2みたいな空間からの写像というのを考えるのになんの困難もないのですから。
 このとき「結果Aを得て…」という文脈は現れませんが、どの結果が出ようが確率がゼロだろうがちゃんと写像されてなんの問題もなくモデル化できます。「結果Aを得て…」という文脈を欲しがっているのは人間であって、現象ではありません。
現象は単に十分豊かな(可測、凸、CPTP…そのミックス)写像があれば書けるわけです。

すると、射影仮説が良いか悪いかというのは、

 

「「結果xを得て…」という主観的体験の分岐可能性を数学的モデルが表現できて欲しい」という要求をどこまで理論に押し付けるか?

 

という話にすぎないのです。で、別にそれはどっちでもいいわけです。やりたいならばやれば?という話で終わりです。数学的には可能だし、RegularであればRN微分で、測定値の各点ごとの条件付けもできます。ただし、条件付き確率と射影仮説は同じ階層にいる概念なので、一方を受け入れて一方を拒否するのはダブスタです。これは認められない。あなたはどちらがお好みですか? 僕はRN微分がかっこいいので条件付けしたいです(そうじゃない)

 

2.マラ9

 

を聴いて来ました。先週末。慶応のワグネルソサエティという大学オケです。

http://www.wagner-society.net/

マラ9はいいぞ(布教をしようと思ったがここで息絶える)。

 

 

 

普通の日記

3週間たってしまったし、普通の日記をする。

ここ数日考えていたことなど。

1.領域

理論というのがあります。

プログラム意味論 (情報数学講座)

 

↑みたいな本を結構前に読んで知ったのが最初(かつ実質的に最後)で、数学的には(非空)有効集合の上限をとれるような半順序集合とその単調連続関数、またはそれらのなす圏の理論のことです。何に使うのかというと、まぁよりよい解説は調べれば出てくると思うのですが、表示的意味論の文脈で、

らしいという観察があり、そこでこうした「上限」という極限構成が自由に行えるような「よく定義されている」性の順序構造を入れておき、意味はそこへ写像しましょうというのが一つの動機だと思います。プログラムは停止しなかったりすることがあるので、そういう値が\botや部分的にそれを返す関数などとして表現されます。\botにならずきちんと値を返す関数は、この順序で上位に来ます。これはこれとしてとてもおもしろく、「順序構造」で表現できる性質は本当に様々あって、発散する計算もそうした構造で表現できるのか、うまいなーというお気持ちが得られます。

 

で、それとは別にHaskellとかOCamlとかの代数的データ型を持った言語というのがあります。代数的データとは型についてのProduct,Coproduct,Terminalとかが取れたりするやつです。そこでこれらの言語は代数的データ型の演算(コンストラクタ)を混ぜながら、データ型自体を再帰定義することができます。プリミティブな型の意味論を与えるのは簡単ですが、再帰している場合にどうするか? という問題に、先と同じ解答を与えることができます。データ型の圏を、領域っぽくふるまう(\omega鎖の余極限があるような、mono射のみの)圏として、同じように再帰の「ガワ」をかぶせた列の余極限をとって不動点にします。リストや木などがその例になります。

 

Haskellなんかは圏の概念が使われていて云々~というのが少し前にあったと思います。僕はそれでHaskellに(というか計算機科学に)興味を持ったのですが、触ってみると言うほど使われているか? という疑問があります。MonadやFunctorは圏のそれに由来するのは確かだと思いますが、これらは個別の例でしかないわけです。型のレベルではまぁ使われているというかなんというか…? で、ちょっとググってみると、そもそもHaskellのデータ型の圏\bf{Hask}は圏じゃないという話が出てきます。

 

https://wiki.haskell.org/Hask

ただこの例はundefを使っていて、Haskellの評価戦略のせいでは?という気がするので、そんなに致命的ではないのでしょう(そもそも何に対して?)。

 

しかしまぁせっかくだし、圏とか領域とかの話を応用できんものかなーという気分にはなってくるのです。現実の汎用言語にそれに厳密に従わせるのは難しいでしょうから、圏なり領域なりでのいじった知見をそのままコーディングへ、という程度ならバチも当たらないでしょう。

 

そこで、再帰スキームとかいう概念が見つかります。

http://comonad.com/reader/2009/recursion-schemes/

Dynamorphism 〜 Haskellでも動的計画法がしたい! 〜 : 東京工業大学 ロボット技術研究会

ぶっちゃけるとまだよく理解していないのですが、日記なら許されるでしょう。

眺めてみると、代数/余代数を振り回すあたり、圏で計算概念をアレしようという勢力の香りがするし、射の構成が、「~を満たす最小の」というあたり領域です。いいですね。ここでの代数余代数は、再帰関数を、分岐処理の余代数と、結果の合流の代数を、その不動点型上で行いましょうという話に見えます。

しかしのっけから、

http://kodu.ut.ee/~eugene/kabanov-vene-mpc-06.pdf

Unfortunately, in CPO initial algebras do not exist.

とか言われてしまいます。CPOというのは領域の圏のことで、領域と圏をあわせるなら、圏で概念を特徴づけつつ、CPOで構成と計算を行って、その結果をそのままコーディングへ、と行きたいところですが、厳密な圏的普遍性をCPOでやるのは厳しいっぽい。それで、関連文献では領域じみた構成と疑似コーディングはしますが、それがどういった「弱い」普遍性をもつかまでは書いてなかったりします。

 

ほんで中途半端やなーというお気持ちで終わってしまうのですが、CPOはexponentialがあるので、\hom(A,B)も領域になります。射の合成も単調関数とわかっていますから、これはCPO豊穣な圏なわけです。すると豊穣圏には豊穣圏で、普遍性のバリエーションが考えられるわけです。例えば再帰スキームは、純粋に圏の議論だけでみると余自由コモナドを得る随伴を使うのですが、この随伴はもちろん正確な随伴ではありません。しかし今順序豊穣な圏なので、随伴の条件\hom(A,GB)\simeq\hom(FA,B)を、

\hom(A,GB)\dashv \hom(FA,B)に緩めることができます。順序集合の随伴なので、これは実質Galois接続です。こうした概念はもうあるようで、lax 2-Adjunctionだそうです。で、実際余自由コモナドを分解する「随伴」の、関連文献に書かれている領域計算をためしにやってみると、どうもGalois接続としての要件を満たしているような気がします。

 

お、ええやん。それでは再帰スキームにおける構成の圏論的普遍性を、CPO豊穣のlax 2-Adjunctionできちんと表現できるし、なぜそのようにコードを書かなければいけないかに理由がつくじゃん。とおもったところで気力が尽きてしまい。以来ずっと放置しているのです。つらいですね。さまざまなところでさまざまな頑張りが要求されることがわかります。

 

2.渡辺澄夫氏の理論

ってどういう扱いなのでしょうか。門外漢には完全に事情がわからない。

本としてはこれです↓

ベイズ統計の理論と方法

わりと出てすぐあたりの時期に買って非可算無限時間積んでいたのですが、ええかげんにせえよということで読み始めました。なんか機械学習やらAIやらで賑やかな世界があるっぽいということは聞きつつも、完全に他分野なので実装する力もなく、理論的な話をするにもなんか具体的なモデルがどうのこうのという話が多い印象の中、原理的な話を高い信頼性で書いてそう…という勝手な信頼をもって買い、積んでいたのです。今でも信頼していますよ。

 

大雑把には、任意回トライアルの確率空間上、学習アルゴリズムをその上のn回までで決まるような測度への可測関数だと思って、その経験損失を眺めていれば学習の挙動がわかる。では経験損失の挙動は何で決まるか? どう計算できるか? ベイズ推定の場合はどうか? という話と認識しています。ほんで、ベイズ推定の場合は経験対数損失(これも確率過程)をハミルトニアンとしたカノニカルアンサンブルが事後分布になり、インデックスと連動した低温極限をとることが学習の進行なので、ハミルトニアンの最小値に向かって最急降下法を取ればいいのですが、ハミルトニアンが素直な性質を持たないことがあり、うまくいかない事があります。しかしその場合でも解析的であれば、ナニヤラアンナコトコンナコトをすることで、無事計算ができるようになります。で、このナニヤラアンナコトコンナコトに、代数幾何の結果が利用されるので、代数幾何すごいね!というお気持ちになるのです。代数幾何、だれか教えて。

 

いずれ話がまとまったらノートをアレすると思います。

 

で、まぁそれはそうと、これを読みながら、どうせならσ加法族上で話してくれんかなーというお気持ちをもったので、それで書き直してみるなどの遊びをしていたのですが、じわじわと\mathbb{R}^n上の確率密度関数の贔屓っぷりはやばいというお気持ちがでてきました。これは次の話ですが。

 

3.確率ってさぁ…

 

確率測度とは何か。それはconcreteなσalgebra上の単位排他加算加法準同型のことです。\mathbb{R}^n上の積分が1になる正値関数は副次的な奴です。だいたい可測自己同型写像でいくらでも変わるやん。

普通確率論やるということになると、集合代数でσalgebraを作って、その上に測度を置いて一丁上がり、確率変数はその上の可測関数なわけです。もしかすると、ながらく離散確率空間や\mathbb{R}上の密度関数の形でしか確率を見たことがない人がいて、そういう方から見ると、「σalgebraってなんやねん」という話になりかねないのですが、数理科学の概念一般というか、大体この手の概念はちゃんとそう宣言する理由があるわけです。ないならギャップがある(過激派)。

 

で、それは何かというと、(古典的)「事象」なわけです。「事象」といったときに、それにどんな構造がありますか?と聞くと、否定や論理積論理和が取れるという観察があります。ほんで、統計処理をしたいので、加算無限回のそれがとれた方がいいということで、加算無現項の論理和と否定をとれるとします。これが(abstract)σalgebra。それから、確率はそれらに対して、「その事象が成り立つ確率」を返すわけなので、[0,1]への適当な準同型を確率と呼びます。

 

ん?まてよ、「事象」代数が集合演算じゃないやんけ。となるのがまぁギャップと言えばギャップですが、こういう束っぽい代数構造は大体集合圏との随伴が取れるはずなので、集合代数に表現すればよし。なんでするのか? うーん… 便宜上…

 

まぁσalgebraくらいは認めてください。

いずれこの手のギャップは殺す。(任意の人名を代入)の名にかけて。

 

でなんで密度関数が副次的かというと、これはルベーグ測度に対するRadon-Nikodim微分なんですよ。で、その\mathbb{R}上の測度としてルベーグ測度はなにによって、どこまで特徴付けられるのか、といったら、それはHaar測度で、定数倍を除き一意じゃないですか。要するに、それがHaar測度であることに何か意味がないなら、これをチョイスする理由がないんですよ。

 

例えばあなたが局所的には\mathbb{R}で座標書けるような可測空間であれこれしたいとするじゃないですか。で、そこで確率を考えた。もしかするとMAPとか最尤とかしちゃうかもしれない。そこで確率密度関数を、RN微分で…アアッーー!!!!!

 

まってそのルベーグ測度をチョイスする理由はなに?その座標ってさ、加法意味を持つの(ンフッ♥)え、微分同相を除いて一意?アハァーー。そうか、その測度が好きなんだねウンウン。

 

みたいなことが起きうるわけじゃないですか。

 

似たようなことがエントロピーでも起きる。エントロピーは狭義には離散確率空間ないしは可測空間の可算分割でしか定義できないはずなんですが、連続空間でも無理やり定義する方法があり、微分エントロピーとか呼びます。で、これ確率密度関数使うわけで、当然底空間の基準測度に依存するわけですよ。だいたい微分エントロピー、この基準測度へのKLdivergenceですよ。そりゃ依存するよ。もちろん、大抵の人はこうした事情をよく知っていて何をいまさらとお思いでしょうが。統計力学で古典的カノニカルアンサンブルでリウヴィル測度とらなかったせいで無事死亡した話を思い出しますね。

 

で、何がいいたいかというと、形式的な特徴付けをしないで、具体的な話をしすぎると、馴染みのある概念の非自明な性質がなんなのか自覚しないままアレしちゃうんですよね。かといって、いちいち普段使う概念を動機づけ、特徴付けしようとすると、僕のように完全に身動きが取れなくなりますのでそれは真似してはいけない。

 

はい。

 

塩梅が厳しいというわかりがあります。

 

 

 

 

 

 

 

音楽と楽譜

音楽における楽譜の地位についての見解をつらつらと話す。

 

身の上話.1

 僕が意識的に音楽を聞くようになったのは大体10才かそこらであったと思う。
意識といっても、自身の嗜好を主張する程度である。以来今まで音楽的専門教育を受けたことはない。


 当時、周囲の友だちは話題のポピュラー音楽とかMステで取り上げられる流行曲などを聴いていたように思うが、僕は今に至るまでものぐさで、そういったものに疎く、
また両親の音楽趣味も1世代前、オタクの兄から受ける音楽趣味は音ゲーやアニメ・ゲーム主題歌と言った感じでポップスにかすりもしなかったので、まったくそういうものに馴染むことは無かった。

 

 こうした環境で刷り込まれたものは、例えば中島みゆき加藤登紀子、それからK◯y作品の主題歌だとか、アニメソングだとか、DDRの1st,2nd,3rd,4thあたりの曲だ。

 それ以外で言えば、当時は丁度The End of Evangelionが公開されて3年くらいの時期で、友人からそのサントラを借りて、これが大いに気に入ったというのがある。このサントラは基本的に鷺巣詩郎のオーケストラBGM作品と、バッハの管弦楽組曲3番アリアや、パッフェルベルカノンなどのイージーリスニングクラシックの類だ。


 しかしこれらは気に入って何度も聞くようにはなったものの、継続的にそれらの発展や情報を得るチャンネルがなかった。
 イージーリスニングだけは母親が気を利かせてくれて、室内楽のCDをくれたり、また当時普及したてだった百均で、廉価版のイージーリスニングクラシックアルバムや、父親が通販で買ったクラシックダイジェストアルバムとかそう言ったものがあったが、
他には発展性がまったくなかった。

 この他には? 似たような作品は? となっても入手する方法を知らなかったのだ。
JPOPであればまだテレビを見て、それからデパートに行けば手に入ったかも知れないが、どうもこうした分野は表に出てこないらしい。この傾向は現在でもあまりかわらないような気がする。

 

 状況が打破されたのは、中学高校でオーケストラ部に所属してからだ。当時はイージーリスニングの軽い曲しか知らなかったので、フルオーケストラによるロマン派の壮大な音楽には衝撃を受けた。

 部に所属することで、少なくともクラシックについては情報を検索するチャンネルがたくさん手に入った。このころにはPCに自由に触れたので、趣味人が開設したクラシック批評サイトでおすすめ盤や趣向の近い作曲家を調べるとか、市のコンサートホールに自由に楽譜やCDを閲覧できる資料室があって、ここでいくらでも時間を潰せたり、部の友だちにコンサートに誘われて聴きに行ったり、CDの貸しあいなどをして色んな作曲家の作品に触れる事ができた。またIMSLPが収容作品数を伸ばしつつあり、著作権の切れた古い曲(クラシックの多くはそうである)ならいくらでも楽譜を見れるようになった。

 

 相変わらずポピュラー音楽やロックには縁がなかった。音ゲー音楽に関しては、いわゆるBMSによるビートマニアクローンで、ファンによる近い作風の音楽をプレイするという機会はあったが、それを除けばほぼクラシックで、JPOPは皆が話題にしている曲を街頭やカラオケで偶然知るという程度である。

 

楽譜の地位

 さて、クラシックと現代のポピュラー音楽には、ある種の志向の違いというのがあると思っている。それは、音楽の実体として、楽譜を重視するかどうか、ということである。重視する、というのは曖昧な言い方だ。具体的にどういうことかと言うと、

 

  • ポピュラー音楽のリリースは、原則としてパッケージされた音源である。
  • クラシック音楽のリリースは、楽譜である(これは20世紀初頭あたりまでの作品のリリース形態を言っている)。

 

  • ポピュラー音楽の楽譜を入手するのは、例えば耳コピされたバンドスコアなり、第三者の編曲版なりは存在しても、オリジナルスコアを入手するのは困難であるか、少数派である(ロックミュージシャンが公式バンドスコアを出すことは度々ある)。
  • クラシック音楽は、そもそも楽譜が出版されて初めて広く演奏が出来るのだから、現在でも流通している作品で楽譜が入手不能になることは稀である(代理店や個人輸入などで高く付くことはある)。

 

といった傾向のことである。


 さて、このような傾向差を説明付けようとすると、割に簡単にそれらしい説を思いつく。それは当時の音楽の媒体のことである。

 

 まずクラシック音楽が発展を極めた20世紀初頭までの時代は、そもそも実用に足る蓄音再生機が十分に普及していなかった。したがって、音楽は体験としては生演奏しかなく、それを記録して永続性を持たせるには楽譜しかなかった。


 このときには楽譜は既に数世紀以上にわたって使われてきた枯れたフォーマットであり、それゆえ西洋の調性音楽を記述するには十分な形式だった。
 音楽の媒体、音楽の記述形式として、楽譜以外の方法が無いのだから、必然的に作曲家は楽譜に表現したい音楽の全ての詰め込む。これによって、楽譜は音楽それ自体と称すべき地位をもつことになる。

 

 一方で現在は安価な音声記録媒体、または通信インフラと、そのプレイヤーが十分に普及している。

 音楽体験を、少なくとも音データとしてはいつでも再生できるようになったため、クリエイターもこの音データをリリース形態として採るようになった。もちろん今でもまずスコアを作成するという作曲家はいるが、DTM環境が安価にそろうようになってきた現在、最終的なマスターデータまでの作成を作曲家がこなすケースも多いと聞く。

 

 要する技術的な問題が解決したことによって、単にあるべき形態に移行したということだ。
 クラシック音楽が楽譜を重視したのは、そうすべき積極的理由があったのではなく、音データを扱う技術がなかったためで、それが実現したので、より直接的に「音楽」をやりとりする現在の形になった、という説である。

 

音か楽譜か

 しかし、ここには1つ疑問を挟む余地があると僕は思う。それは「音楽それ自体」は本当に「音データ」と言い切っていいのかということである。

 もはやほとんどの音楽のリリース形態が、音データそれ自体またはそれを含むようになってしまったので、音楽といえば、その実体は音データであるということを疑わない人の方が多いと思う。

 

 音楽とは一体何であろうか?何と定義するのが相応しいのか?
 あなたは音楽を何と宣言するだろうか? 

 

 ここでは一応「人類文化の一形態」とする類のものは、反則としておく。音楽が何と関係するか、ではなく、音楽それ自体を定義してみたいのである。

 そしてこの疑問に関して、僕がこの文章で主張したいこととは、

 

 音楽の定義の「仮説」としては、「音データ」よりも「楽譜、または類する離散的データ形式」のほうが適切である。

 

ということである。

 

 以下これが何を主張しているのか、なぜそう考えるのかということを書いてみたい。

まず、「音楽が何であるか?」という問題に対して、弱冠の擬似科学的アプローチをとることを考えよう。
つまり、「地球上の運動の法則とは?」「宇宙の構造は?」「生命の仕組みは?」などと同様に、ある種の現象クラスに対して、それを「効率良く記述、説明する事が出来る見方」を探すのである。

 一般に科学理論とは、ある種の閉じた現象クラスを再現/説明するような、
矛盾がなく、また人間に認知できる架空の世界観であり、次のような性質を持つ方が良いとされる。

 

  • 軽量である。つまり説を展開するにあたって必要な記述データが少なく、またそれらを統制する原理や法則も少ないほどよい。
  • 普遍的である。つまり説の適用範囲が広いほどよい。
  • 精密である。つまり予測や説明が細部までうまくいくほどよい。

 

 基本的に、これらの良さによる順序で何らかの優位性をもつ(完敗していない)ものが現在生存している。

 

 さてそうすると、「音楽とは「音データ」である」とする科学理論は、少なくとも矛盾はない。普遍性もある。「音データとして表現出来ない音楽」などときくと、怪しい現代音楽の匂いがしてくる。精密さも優れてはいる。理論上は音データは関数空間であり、超音域を含めたあらゆる波形を格納できる。

 

 一方で「音楽とは「楽譜」である」とする科学理論は、これも少なくとも矛盾はない。音データに対して、離散情報しか使わないので非常に軽量である。しかし普遍性では音データ説に劣る。それは現代において、あまり楽譜が重視されなくなったため、
楽譜に相当する概念が普及しないまま音楽として受け取られているような楽曲があれば、それはこの説の射程から漏れるためである。精密さも同様だが、例えばアーティキュレーション記号などで表情を記入することはできるので、大雑把な指示であれば記述できる。

 

 こう見ると、やはり精密さの面で「音データ」に軍配が上がるのでは?と思うかもしれない。しかし人間の認知に入るような議論をしやすいかどうかという「実効的」な意味では、それでも楽譜に軍配が上がると考える。


 なぜそう考えるのか?

 

思考実験

 

 例えば、音楽を音データとして記述するとし、同曲異演の可能性があるデータを2つ手に入れたとしよう。
 そこであなたは、「同じ曲」という、非常に音楽的に有意かつ基本的な同値関係概念を、この理論上で実装したいと思ったとしよう。
 同値関係は、非常に基本的な物で、どんな理論であれ、ある種の概念に何らかの性質を矛盾なく定めるには、それが写像になってなくてはいけない。写像であれば、「同じ性質をもつ」という同値関係が定まる。
 そこで、音データに自明に入る同値関係とは、例えば時間軸上の波形データとして同型だとか相似だとかそう言ったものだ。しかし間違いなくこの自明な同値関係では、「同じ曲」の同値判定に失敗するだろう。これは音楽の記述としての「音データ」は「同じ曲」という単純な概念を考えるためだけでさえ過剰に精密であることを意味する。

 

 現実にこのような判定をするとしたらあなたはどうするだろうか?
 おそらく直ちに思いつくのは、「判定機に楽譜を学習させる」という方法だ。つまり、フーリエ変換で音高を取得、またそのスペクトルから音色を同定し、その推移グラフに適当な距離を入れて、それが一定の閾値を下回れば同じ曲と判定することである。しかしこれには問題点がある。

 

 1つとして、一般に距離関数を定義しても、「一定距離内にある」という関係は同値関係を定義出来ないということ。これは「音データ」が棲んでいる関数空間が巨大すぎ、到底音楽と呼べないデータまで含まれていて、それを経由することでほとんどのデータが連続的に繋がってしまうということでもある。
 これを回避するには、教師データを与えて、その近傍に所属することで判定するというやり方が考えられる。

 

 もう一つ致命的なことは、「楽譜に相当する概念を学習させる」という考えを取ってしまった段階で、これは「音楽とは「楽譜」である」説を引用してしまっているのである。「同じ曲」という有意な概念を考える為には、「音楽とは「音データ」である」説は、「音楽とは「楽譜」である」説よりも、「重い」理論であるということになる。一方の「音楽とは「楽譜」である」説では、「同じ曲」概念は、単なる楽譜の同値関係をそのまま使えばいい。至極簡単である。しかもこの場合は、「音色を無視した同じ曲」も容易に実装できる。つまり、パート情報を落すのである。

 

 他にどんな有意な概念があるだろうか? 音楽では、あるメロディがアレンジされたり引用されたりという事が起きる。するとあなたはこう考える「引用されている」という推移的二項関係を得たい。どうすれば良いか?
 ここでも全く同じ問題が起きる。引用とは、多くの場合「メロディ、和音、リズム」などが似ているということである。
 ところが音データからこれらを抽出するには手間がかかり、またこうした考え方は既に「楽譜」説の引用である。「楽譜」説では、メロディ、和音、リズムは、それぞれ楽譜のワンライン抽出、垂直断面、音高忘却のことで、この写像にもとづいて二項関係を入れて、時間軸を加味して順序を入れれば定義出来てしまう。

 つまり、音楽にまつわる様々な実効的議論は、「音データ」が主流になった今でも、
依然として「楽譜」上であれば容易に構成でき、一方「音データ」からは、「楽譜」説の考え方を埋め込んだ上で、それを抽出する手間がかかるのである。かくして、音楽的概念を展開するための科学理論として、「音データ」は「楽譜」に敗北する。

 

 これが「音楽は「楽譜」である」説のほうが、「音楽は「音データ」である」説よりも、「仮説」として優れているという主張の理由である。

 

 「仮説」としたのは、例えば「音データ」化が普及するとともに台頭した電子楽器やそれによる電子音楽に対して、その拡張表記を5線譜などの標準の「楽譜」形式がサポートしていない、つまり現在の標準形式の射程が限定的なためである。
 五線譜は叩き台としては優れているが、まだ改良/拡張の余地が大いにあるので、「定説」とは呼べない。
 恐らく、より適切な次世代の楽譜は、例えばDAWのプロジェクトファイルや、MIDIファイルに適当な視覚化メソッドを加えたものになるだろうが、それぞれ特性や水準の違いがあり、標準化には程遠いだろう。モジュラーシンセの配線や、コントローラーへの命令を表記できる拡張書式を定義して、この説をブラッシュアップすればよいのだが、そういう動きは聞いたことがない。しかし作曲家は間違いなくそうしたものを理解して曲を書いているはずである。そうしたものを理解しているから、例えばDAWの乗り換えをしても、作曲家は作品を作れる。

 

想定される疑問

 

 さて、この考えには反論が予想される。もっとも大きなものは次のような体験に由来するものだと思う。

 

「そうはいっても、我々は音楽を耳で聞く。それは音である。楽譜やそれに類するデータからは音がしないではないか」


ということである。

 

 「音がする」というのが音楽の性質として欠かせないものであることは確かにその通りである。人類が耳を持たなかったら、音楽は存在しなかっただろう。しかし、より純粋に音楽それ自体については、僕はやはり「音がする」ことは副次的だと考える。
 つまり、文化史上音楽が発達するために、それが「音がする」=「「音データ」への表現メソッドをもつこと」は必要条件だが、「音楽」それ自体の性質としては「音がする」はあくまで主要な「表現型」にすぎない。ということだ。

 音楽の遺伝子は依然として楽譜の形をしているということである。

 

 「表現型」は進化論的な含みとしてこう表現したが、それは突然変異が基本的に遺伝子/楽譜レベルで起きるという点でも共通している。音楽におけるそれは作曲家の脳内である。

 例えばベートーベンは聴力を喪失しても新曲を書いた。つまり、彼のスコアは「音データ」による表現をまたずに編集されたことになる。ベートーベンでなくても、楽譜の読める音楽ファンであれば、スコアをみながら、「このメロディはよさそう」「このリズムは難しいな」「ここは俺ならこうするな」などと想像するだろう。

 そのとき、「音」はどこにも存在しない。

 

 強いていえば、記憶を頼りに音に相当する感覚の模倣を脳内で行っているというのはある。もしかしたら、「頭の中で演奏をシュミレートしている」時特有の神経反応があり、そのある部位の信号は「音データ」に近似である可能性はある。しかし僕はこのようなことは望み薄であろうと思っている。というのも、「音データ」は「楽譜」に比べて遥かに容量が大きいからだ。脳がそのような容量の無駄遣いをするとは思えない。

 

 中間の可能性として、「音データ」をDNNに食わせたときの中間層のようなパターンを再生することはあるかもしれない。しかしそれも結局、標準的楽譜とは異なるやり方で、「音データ」の抽象化を行って音楽を記憶しているということであり、「楽譜」が音楽の抽象化であることを考えれば、「音楽の科学理論」の可能性は楽譜だけではないというだけである。原理的には、ある人の「音楽観」を概念化できるのならば、それが音楽の定義になりうる。楽譜は単に、数ある音楽観の中で、万人に理解出来、それなりの精密さと普遍性を持つものということである。

 

 もう一つの反論として、次のようなものがあるだろう。先の思考実験において、楽曲の判定という、「音データ」説に不利な例を出した。すると

 

「現在の大半の音楽が楽譜ベースなのだから当たり前である。楽譜ベースでない音楽的概念まで考えればこの結論にはならない」


という反論が可能なように思える。この想定反論についてコメントをしよう。

 

 すこしこれまでの流れをおさらいしよう。最初に擬似科学的アプローチをとるとしたために、以上の議論は、「音楽は何であるか?」への回答が、音楽に対するある種の科学理論であるべきだ、という考えを前提にしていた。

 すなわち、「楽譜」という、音楽に関する科学理論は、それが音符からなるという原子論のことである。
 「音データ」という理論は、これに対して表現型の棲む関数空間を持ち出す。ところが関数空間は巨大すぎ、よくある概念を展開するのが困難であるということだった。

 しかしこのよくある概念は、例が楽譜ベースのものだったので、そうでない概念を考えれば必ずしも楽譜有意にならない、という反論ができた。


 たしかに、例えば音圧といった概念は、音データ側にある。
 音圧とは、音データの周波数特性がフラットに近いことで、あらゆるパートがそれなりの音量で鳴っている程度を指す。音圧調整はいわゆるマスタリングという作業の一部だが、それまでの音声データは、例えばMIDIや、なんらかの演奏データで、それは楽譜に準じるものである。そしてマスタリングは信号処理写像であり、これは慎重に設計された数学的関数の実現である。実現可能な数学的関数なのだから、それを表現する離散的データがある。つまり、音圧と言った概念は、この楽曲をマスターとして出力するDAWのプロジェクトファイルから制御される量なのである。

 

 これはどういうことかというと、先の思考実験の反例としてあげられる、音データ側にのみ属するようにみえる音楽的概念も、拡張された楽譜概念の、音データへの表現の結果として説明付けられるはずだと言うことである。説明付けられる、ということは、それは科学理論の上では副次的な概念である。
 したがって、楽譜概念をうまく拡張して制御出来るようになれば、最終的にはこうした「音データ」上の性質もまた、拡張された「楽譜」説の優位性の方に寄与する。
 音データ側のみに見られる特徴は、「楽譜」説の射程が足りないということではなく、「楽譜」説が自身を拡張して解明/制御すべき現象を提供している、とみなせるのである。

 

 結果的に、楽譜のフォーマット拡張が追いつかないような最前線の音楽を除く、大多数の音楽は、原則として何らかの「楽譜」による理論が最良の説明を提供する基盤になると考えられる。この射程の外側にある音楽を記述するには、楽譜を拡張すればいい。
もしかすると、あるときにはプログラマブルな楽譜、インタラクティブな楽譜といったものになるかもしれない。

 実際こうした環境は幾つかあり、MAX、MSP、SuperColliderと言ったツールは、音に関するプログラミング言語である。

 

 ではどれほどの拡張がありえるだろうか?拡張の結果、あまりにも楽譜が複雑な概念になり、それが「音データ」と変わらない位巨大な概念になってしまっては、「楽譜」説を擁護する意味がないのではないか?

 

 しかしそうはならないと期待できる。電子音楽や現代音楽を含む形で楽譜を拡張して記述する場合も、それはMIDIファイルのように、「音データ」よりは遥かに少ない情報量でできるはずという予測を立てられる。


 なぜか? それは、音楽を判定し、また音楽を作成している人間が、有限の計算資源を持つ存在だからだ。
つまり、音楽とは(人間が計算可能である限り)計算可能な概念のはずなのである。したがって、それは高々可算個で、その表現が「音データ」に写像するものであっても、「音データ」の関数空間のごく僅かな領域しか占めないはずなのである。
 どれほど新たな音楽概念を発見しても、それを作成し、また理解するときに、楽譜に準じる軽量データ形式への圧縮プロトコルを同時に発見するだろう、ということである。

 

 もしこの考えが正しいのならば、音データを取り扱うさまざまな文脈に並び、音データへの表現メソッドをもつ、拡張楽譜データを取り扱う文脈がいずれ登場すべきだと思う。むしろ音データへの表現は、それが人間に直接印象をもたらすのに不可欠とは言え、単純に伝達するだけならば、聴力や音質といった障害や、データ容量の点で明らかに不利である。
 一方の楽譜は簡単な訓練で読むことができ、音データよりも遥かに軽量である。また軽量であるだけでなく、それがなんであるかを、その作品が作られたときと同程度の水準で了解出来る可能性が高い。


 思えばかつてはMIDI文化というのがあり、これは容量の面では優れていたが、音源環境の再現性や、既存の楽曲を利用する場合の著作権の問題などもあり、廃れてしまった。これについては、MIDIはもともと電子楽器を制御するデータフォーマットであったので、基本的にシーケンシャルなデータ構造であり、高級な概念を表現するには向かなかったこと、また標準の可視化メソッドがなく、DAWが五線譜やピアノロールなどの思い思いのやり方でGUIを設けるに過ぎなかったというのが原因ではないかと思っている。

 

 こうした「ある種の情報媒体で、音データから抽象化された離散データに取扱いが広がるもの」には既に先例があり、それはまさに言語である。
 識字率が低い時代は、人は声を聞き、それによってさまざまな感情や動機を掻き立てられていた。

 今字を読める我々は、同じ印象を、なにやらふにゃふにゃした記号の離散的集合から得ている。
 何やらつぶつぶした点の集合である楽譜でそれが出来ないということがあるだろうか?実際に楽譜が読める音楽ファンは、部分的にはこれと同じことをしているのである。

 

 以上の、「音データよりも楽譜の方が音楽を良く記述する」という主張は、表現型である音データとその体験の地位を貶めるわけではないということは強調しておく。
 もし我々が新しい音楽的概念を擁立する動機をもつとしたら、そこには多分音データによる直接の体験が噛んているはずである。
 際立った音楽体験があれば、良く耳を傾け、それを収集し、さらには抽象化し、適当な拡張で既存の音楽体系にそれを組み込めないか考える。そうしてそれを再生するための規則を得た時、その音楽体験を完全に理解したと言える。これは科学とよく似ている。
 このとき、拡張されたかもしれない楽譜の書式は、その現象を制御する表現力を持っているだろう。

 

身の上話.2

 

 僕が「楽譜」サイドの人間であるということを、公正の為に告白しておく。「楽譜」サイドである、とは、僕自身が音楽の本質は「楽譜」であるという考えを、以上のような説の尤もらしさ以上に、嗜好として好んでいるということである。それにはいくつかの個人的理由がある。


 まず、僕は耳が悪い。聴覚の悪さが音楽の鑑賞にどの程度影響するのかは確かなことはわからないが、何れにせよ、自身の耳をあまり信用できない。聴いた印象が何に基づくのか、なんらかの判定が正しいかどうかは、常に楽譜を見なければわからない。僕の音楽の半生が、クラシック、つまり、楽譜とともにあるジャンルであったことは、
この意味で他に選択肢が無かったとも言える。なぜなら、ポピュラー音楽がオリジナル楽譜を出版することは稀だからだ。最近はロックバンドも聴くようになったが、依然としてバンドスコアはその曲を理解する最良の友である。


 それからもう一つ、僕はあらゆる表現分野は、ある意味で科学の親戚であると思っている。したがって、感性に任せた説明は、音楽を特徴づけられないと考える。

 ところが、音楽に関する(音楽以外でもだが)批評は、感性に基づいた説明が大いに跋扈しているように見える。これも僕には信用できない。

 音楽を聴き、ある種の感情の高ぶりを得たとしよう。

 これは新しい現象である! したがって収集すべきだ。

 それは悲しみか? 優しさか? 喜びか? あるいは? よりもっと崇高な表現か?そもそもそう名付ける根拠はなにか?
 これが歌であれば、歌詞からそれを推察して名付ける事があるかもしれない。しかし、僕の音楽の半生は、純楽器音楽が大半を占め、歌は少数だった。歌詞を聞き取れなかったというのもある。すると、その感情を名付けるヒントがない。ライナーノーツは楽曲構造の説明をする場合の他に、その曲の書かれた経緯と、簡単な印象が示されることがあるが、明らかに曲の長大さはその言葉を超えている。


 その感情を名付けて記憶するにはどうすればいいか? 楽譜を読むのである。そしてメロディを覚える。そうすればその感情は焦点をむすび、僕のものになる。これは感情で説明をつけるよりも信頼できる収集方法だ。


 オーケストラ部にいた時代の友人は、当然みな奏者であるから日頃から楽譜を読んでいる。気に入った曲のスコアを確認するのが趣味な人間は、他にもいた。そうして気に入ったメロディを見つけたら、実際に弾いてみたりもする。
 しかしいざその外に出てみると、音楽ファンであっても、「楽譜が読めない/を読まない」ことを公言する人が予想より多いようだ。

 正直なところ、謙遜ではないかと疑っている。大半の人が義務教育は受けているだろうし、その音楽の時間では多少の楽譜を読むことを強いられる。結局はあの延長にすぎない。
 ここでいう「読む」とは、何も理論分析ができるとか、オーケストラの響きを想像できるとかそういうことではない。単に曲のどの部分がどこであるか追跡できて、簡単なフレーズならば極々大雑把な相対音程で諳んじれるという程度の意味である。
 これには仕方のない面もあると思う。ポピュラー音楽には先に見たように、オリジナルスコアを公開する文化がない。したがってそれを読む文化もないのだ。

 

 この文章を書いた動機は、こうした状況に関して、楽譜という形式的記述が音楽において占める地位を、もうすこし向上出来ないかというものである。


 皆さん、気に入った曲の楽譜を語りませんか。

 

紹介

 

うだうだと書いたが、要するに、

 

スコアを見て面白い曲は、聴いても面白く、その逆もしかりということである。


というわけで、個人的に印象的な曲とそのスコアを幾つか紹介する。

譜例はIMSLP及び個人所有のスコアからのトリミングである。

 

ワーグナートリスタンとイゾルデ第一幕前奏曲

 

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 これは短七度跳躍のエモさをもっとも効果的に教えてくれたメロディだ。この七度跳躍の近傍はスケール上ドミナントの構成音なので、非常に調性感がある。

音程跳躍は基本的に大きく不協和なほど歌いにくく、同時に自然にキマった時のインパクトがある。そのなかで短七度は不協和跳躍の王道みたいなものだ。

http://imslp.org/wiki/Tristan_und_Isolde,_WWV_90_(Wagner,_Richard)

 

ワーグナーローエングリン第一幕前奏曲

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 高音域の弱音の和音から始まり、何層にもメロディが重なって厚みを増していく。
 それぞれのメロディは分散和音装飾までしっかり感動的で、重なったそれらが聞き分けられないのが非常に悔しい。
 曲の終盤のシンバル二連打を伴う音響的頂点の為だけに、10分を費やすという粋な曲構造にも注目。

http://imslp.org/wiki/Lohengrin,_WWV_75_(Wagner,_Richard)

 

マーラー交響曲10番5楽章

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 マーラーのメロディのなかではトップクラスに美しい旋律だと思う。
ここでも短七度跳躍がいきなり入る。上がった音はその時の和音でsus4になって放置される。受け取る印象は先のワーグナーとかなり違って、中途半端な雰囲気がある。
 これは曲中たびたび登場し、この楽章を特徴づける。
 基本的には小節線の直前などの8分で動きを付けたなめらかなメロディだが、最初はFにナチュラルが付き、三小節目ではGにシャープが付くなど、色彩を変化させる工夫がされている。FナチュラルからCシャープまで増四度を上がる時、次の小節で再びD調に戻りBからEまで上がる時の雰囲気の違いを味わって欲しい。

(譜例はFABER MUSIC LTD,GUSTAV MAHLER Tenth Symphony prepared by Deryck Cooke,(1976)より123ページ)

 

シェーンベルグ:グレの歌第七曲

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 これは少し珍しい長七度跳躍である。なおこの曲は非常に編成が大きく、スコアもかなり複雑で、全員が何らかの仕事をしているような瞬間はスコアの段数が凄まじいことになり、視覚上のインパクトは絶大である。

 僕の知る限り、実際の鑑賞に十分耐え、かつ複雑で巨大な音楽というと、この曲が頂点に立つ。実演に立ち会ってみたいものだが、マイナーさと採算から当分の間は実現しないだろう。
 愛知万博の企画で演奏された事があるらしいが、残念なことに当時僕はこの曲を知らなかった。

http://imslp.org/wiki/Gurre-Lieder_(Schoenberg,_Arnold)

 

ブルックナー交響曲6番1楽章第二主題

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 第二主題は短調長調で二回繰り返されるが、これは長調の二回目である。4拍子の堂々とした主旋律に、最高で9連符をもつセカンドバイオリンの対旋律と3連符のバスが絡む。
 このフレーズのすごいところは、セカンドバイオリンが何度も主旋律に2度で衝突しているところである。
 2度での衝突は、音が濁ったり鋭くなったりして扱いに注意を要するが、これはフレーズ全体の強拍で毎回衝突する。
 しかし全く不快さはなく、むしろ輝かしく聴こえる。不協和音程も使い方が洗練されるとここまで来るという例である。

http://imslp.org/wiki/Symphony_No.6_in_A_major,_WAB_106_(Bruckner,_Anton)

 

ブルックナー交響曲9番1楽章第一主題

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 ブルックナーは複雑なメロディや対位法的書法をするときもあれば、大胆なユニゾンも駆使する。ユニゾンは当然楽譜の上でも相似になるからすぐに分かる。この最強音でユニゾンされるメロディは、ややぎこちない動きだが、以降1楽章で展開する幾つかの動機を含む伏線になっている。

 

http://imslp.org/wiki/Symphony_No.9_in_D_minor,_WAB_109_(Bruckner,_Anton)

 

ブラームス交響曲4番1楽章

 

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 ブラームスの書法はかなり明確な癖がある。ある動機を使いまわすと決めたら徹底的に使い倒す。主旋律で使ったら次は伴奏、弦で使ったら次は管、重ねる時は拍をズラす。新しいメロディの伴奏がどこかで聴いた動きであったり、その引き伸ばしであったりという例が大量に見つかる。合いの手はしつこいくらいに差し込む。
 ただし、動機や旋律の計画的な使い回しは、この時期の作曲家の基本的なテクニックである。長大化し続ける曲の内部にこうした有機的関連や構造を持たせることで、楽曲全体の秩序を保つ意図がある。
 ブラームスはそれが少ない素材で徹底的に行われている。多分使いまわされてないメロディの方が少ない。

http://imslp.org/wiki/Symphony_No.4,_Op.98_(Brahms,_Johannes)

 

トゥビン:交響曲4番1楽章

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 これは多分ストレッタとかいう部分だと思う。いわゆるカノンのように、同じ形をした主題が別パートでタイミングをずらして開始されて繰り返される。フーガやストレッタという技法はクラシックではおなじみのもので、スコア上でも明らかに視覚に訴えるのですぐわかる。

(譜例は NORDISKA,Eduard Tubin SINFONIA LIRICO より13ページ)

 

ペルト:ベンジャミンブリテンへの追悼曲

 これは作曲家が存命で、スコア入手が面倒であったので、言葉で説明する。
 まず形式は拡大カノンである。つまりカノン形式であるが、追走するパートは長さが倍になっている。
 この曲はそれだけでなく、メロディが、1音づつ長さを増やすだけの下降旋律+分散和音にすぎない。どういうことかというと、
 まず第一メロディは、A6の音程から、2分4分音符が交互にA6-|A6G6-|A6G6-F6|A6-G6F6-E6|A6-G6F6-E6D6-|...と続く。
 つまり2分4分を繰り返す三拍子リズムに、A6から下降する、ひとつづつ長くなる音名列を割り当てただけである。
 第二のメロディは、リズムと音価は第一メロディとまったく同じで、Amの構成音の中を、E6から初めて、第一のメロディの音高に到達しない最大の音名をとるように推移する。
 そしてこの2旋律から、それぞれ半小節、1小節、2小節、4小節おくれて、同じ2旋律を2倍、4倍、8倍拡大したものが始まる。
 恐ろしく単純で規則的な設計なので、実の所この曲を「定義する」には楽譜すら冗長な形式である。もし音楽のコルモゴロフ複雑性みたいなものがあれば、圧勝できるだろう。