語学嫌いは言語類型論をやれ

 半年たってしまった...

 皆さん、英語(任意の語学)好きですか?

僕は嫌いです。

 人はなぜ、特定の教科/分野/学問を好きになったり嫌いになったりするのでしょうか。 精神論や観念論はよろしくないという立場においては、これは端的に言って 「好き/嫌い」と判定されるような行動をとる傾向性を、 適当なフィードバックで強化されるような環境に置かれたからでしょう(身も蓋もない)。 そのような話として行動分析学があるので興味ある向き、そして教育者各位は読んで僕に教えてください。

行動分析学入門―ヒトの行動の思いがけない理由 (集英社新書)

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行動分析学入門

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 思えば語学の成功体験なんも無いですね。僕は理系か文系かというとド理系で、 ここ数年で偏見が緩まったおかげて人文/社会科ももしかしたら面白いかもしれないと思いつつありますが、 語学は銃口を突きつけられないとやらない位にモチベーションがない。 中高大と語学はとにかくもう、

こういう表現がある、こういう語彙がある、 書いて覚えろ、聴いて覚えろ/書き取れ、 (どうでもいい文を)読んで読解しろ、

という話ばかりで、 原理さえ押さえればどんな議論を考えてもよいという高い自由度/正誤判定が一貫していて容易という明快さがある数物に比べて、 なんだこのクソつまらん教科は、教科じゃないんじゃないか?などと思ったりしました。 あと僕は耳も悪いので日本語も英語も文脈抜きで単語や短文をクソ音質で投げられても聞き取れる訳がない。

 今でも「言語学」はともかくとして、「語学」は学問じゃないよな、と思っています。 どちらかというと体育や美術に近い。というのも、それは追求したり分析したりするものではなくて、 習慣化したり、表現したり、交流したりする為のものなので。 しかし体育や美術、つまりトレーニングや表現技法の一種なら、 それはそれでゲーミフィケーションやコミュニティによる動機づけがまるで足りてないのではないか。 なぜ日本の英語話者は日本とかいう環境で英語を学び通せてしまえたのか。 まぁこの教授形態の愚痴は本題でないので置いておきます。 学校教育に期待できないのは今に始まったことではない...

 ともかく語学はクソつまらない。面白いと思っている人には申し訳ないですが、 英語が覇権を握ったが為にどの分野で大成するにもこんなつまらんものと付き合わされる羽目になった歴史を恨みざるを得ない。 なぜ面白くないのかというと、その内容や事実に内的説明が殆ど与えられないからです。 ただ規則と事実が、何故こうなっているのか、なぜこうすると良いのか(何の為なのか)抜きの羅列になる。 これが数物であれば、原理はなるべく一貫性とコンパクトさを保とうとしますし、各種公式や定理にも、 それを考える動機づけ、ないしなぜそれが成り立つかの導出が伴っています。 今にして思えばこれは当たり前で、特定の言語なんていうのは、 歴史/文化的経緯でフワッと決まった側面を持っているわけで、 まったく普遍的でも必然的でもない要素が多分に含まれているのです。 そんなただの偶発的な事象に由来する取り決めに「親しむ」ことを強いられるのが気持ちいいわけがありません。 多様な文化はどんなめちゃくちゃなものも存在は尊重しますが、それは僕に(誰にでも)強制しないという条件があります。

 なんかもっと普遍的で、汎用で、形式的側面から言語をなんとかできないのか... 学部の時に形式言語理論に潜って文脈自由文法とその派生(言語学では句構造文法というようですが) に出会ったときの感動が想像できますでしょうか?英語はもはや何も分からんが、これなら分かる。 なぜ語学教育は近似的でもいいから句構造文法を一番最初に提示しないのか??????? 人を馬鹿にしやがって。許さんぞ。今でも思っています。

 さて、去年に遡りますが、こうして悶々としていたなかで、ある分野に出会います。 普通の教育課程をパスすると英語とかいう憎き覇権言語が外国語の9割になってしまいがちですが、 当然ながら世の中には大量の言語があります。英語や日本語とか似ても似つかない言語もありえます。 しかしwikipediaを眺めていると、ある言語は◯◯的で~とかある言語はこの言語に似ていて~/違って~とか、 あるいは品詞や句や節や諸々の語学概念が、複数の言語にまたがって、あるいは比較されて用いられている事がわかります。

「まてよ、そもそも言語学(?)には、こうした言語によらない概念や語法や道具立てがもっとあるのか?」

と思って調べていくと、どうも言語類型論という分野がある事がわかります。 それらしい読み物や入門書が参考文献として出てきます。

言語のレシピ――多様性にひそむ普遍性をもとめて (岩波現代文庫)

言語のレシピ――多様性にひそむ普遍性をもとめて (岩波現代文庫)

言語類型論入門――言語の普遍性と多様性 (岩波オンデマンドブックス)

言語類型論入門――言語の普遍性と多様性 (岩波オンデマンドブックス)

言語普遍性と言語類型論―統語論と形態論 (言語学翻訳叢書)

言語普遍性と言語類型論―統語論と形態論 (言語学翻訳叢書)

ヴォッッッッッッッッッ

 これは大当たりでした。僕は語学弱者であり、言語学専攻でもないので、誤読の可能性は大いにあるのですが、 ここ数年で最高レベルに分野の存在に感謝を捧げています。

 いいですか?リンクは貼りました。 とりあえずリンゼイの言語類型論入門をカートに入れてください。話はそれからです。僕もこれを今読んでいる。

 何が当たりだったか。この分野には、 「語学がそれ自体面白いものである為には足りないと思われるもの」の大半が入っていたからです。 それは何かというと、言語(特定のものではなく全ての)それ自体に対する説明としての科学です。 リンゼイでは次のように類型論を定めています。

言語の全体像やその構成部分の分類を、それらが共有する形式的特徴に基づいて行うこと。

 言語全体を相手にしているので、自ずと語法は特定の言語を贔屓しない中立的なものを志向します。それから、主に形式的特徴に基づくことで、例えば地理的、歴史的経緯による系統よりは、その言語が言語として持つ性質にフォーカスします。このあたりの傾向を通言語的とか共時的とかいいます。

 リンゼイ本に沿って、具体的に類型論が何を語るか少し見てみます。

 まず品詞はありふれた概念ですが、通言語的に品詞という概念が意味を持つか、という問題があります。 品詞なるラベルは何で決まるのか?それらの判別規準はなにか?というのをあらゆる言語に通じる形で定めようとするのは難しい、という話が延々とされます(誠実ですね)。おそらく大抵の言語に名詞動詞形容詞等etc...といったカテゴリーがあること自体はいいでしょう。そこで、次の普遍性が提出されます。「すべての言語にて、名詞動詞は《開いた》品詞で、形容詞以外の他の品詞は《閉じた》品詞である」。ここで、「開いた」というのは、語彙の追加や削除が容易に起きることを指します。これはちょうどプログラミング言語のコア部分はそうそう変わらないがライブラリは随時追加されるような様子に似ています。

 もう一つ有名な例をだします。それはSVO要素の順序についでです。そもそもSVOに相当する概念が各言語にあるのか/それは何で系統的に識別できるか、という問題がありますが、 ひとまずこれがあるとしましょう。例えば英語はSVO、日本語はSOVです。 理論上あり得るSVO順序6種類のうち、このSVO/SOVを採用する言語が大半であり、VSO/VOS/OVSは稀、OSVは全く無いという統計が存在します。 そしてこれは何故かというのを、認知上の利点、統語的なVO要素の結びつきによって説明します。 例えば、Sは先行した方が認知上メリットがあるだとか、VOは動詞句を構成するのでこれが分割されることは稀、というように。

 それから、これはベイカー本でも紹介されているのですが、多くの文法で、動詞句のVとOの順序は、 それ以外の句、節の構造、修飾詞、冠詞の参照先の順序、前置詞/後置詞の傾向などと相関があるという指摘が入ります。 これに関する説明や概念立てを検討した後で、ドライヤーの方向分岐理論が紹介されます。 方向分岐理論の説明がいまいち飲み込めないのでここはちょっと自分の理解ですが、それは 構文解析木の分岐において、複雑さがバウンドされないカテゴリ(分岐的カテゴリ)を左右どちらに置くかは一貫している」と読めます。 もっと大雑把には、言語の文法は右再帰か左再帰かを統一する傾向にある、と言って良いのではと思います。 VO順の場合は、Oは複雑な構造を持ちえるので、動詞句以外の句などにおいても、左側にそうした複雑な要素を置こうとします。 そして、この理由はなぜかと聞かれれば、もちろん構文解析の容易さを挙げます。

これ滅茶苦茶面白くないですか??????

 他にもいろんな分析例があるのですが、どうも目次をみると、これは言語が果たすべき基本機能やレパートリーが概ね共通で、それをどう実現するかという(制限された)多様性をコンパクトに列挙しているようにも見えます。つまり、類型論は

  • あらゆる言語全体という集合にも、かなり強い制約や共通した性質がある(普遍性)。

  • 言語がある機能を実現する為にとる手段は、限られつつも選択の余地がある(多様性)。

という二点を明らかにするのです。この普遍性と多様性はまさりリンゼイの副題です。

 前者の普遍性は、なんらかの尤もらしい説明が与えられます。  後者の多様性は、限られつつも恣意的であることが了解されます。

 例えば、ある人が新しい言語を学ぶとしましょう。もし十分な類型論的知見があれば、 その言語の文法のうち、どこまでが言語によらない必然的な要素、つまり一貫した説明を与えられる部分で、 どこまでがその言語の恣意的な選択、つまりそうである理由は無いが、その言語「らしさ」を成す部分であるかを了解できるわけです。

 こういう話が学習段階で提示されたらもっと語学が好きになれたろうにと本当に思います。

 大事な違いですが、例えばこれはある語の語源がどうとか、歴史的な語族系統図がどうとか、◯◯語圏の文化と言語の関係がどうとかそういう話では全く無いんですよ。むしろ全く逆で、そうした雑多な要素を一切排除して残る形式的なコア部分のその原理と選択肢は何か、という話なのです。(なんか雑多で非形式的で豊かであればあるほどいい、という文化系特有の傾向(偏見)、はっきり言って大ッ嫌いなんですが、まぁそれはおいとくとして) 個人的な性癖ですが、こう、習うより慣れろというのが本当に無理で、もっというと疑うよりも習えというのも厳しいのですが、こうやって普遍的な部分からスタートして、残りの恣意的な部分は、それこそが◯◯語なんですよ、と言ってくれれば、とりあえず説明の要求は前者に集中して、後者はまぁそれこそが◯◯語なんだから仕方ないよな、と思う余地が生まれるわけです。

 プログラミング言語のような人工言語は、ある種の表現力を実現するためにその構文を考えていると思います。 であれば同様の「この機能を実現するためにどの構文をつかうか」という視点が自然言語にもあって然るべきではないですか。 自然言語の機能のレパートリーは、どうも歴史を通してあまり変わっていないようなので、 各々の言語はそれをどうやって実現するかという、制限された選択肢のなかから、あるやり方を一貫して選んだものだといえるわけです。

 どうですか。ここしばらく類型論のプッシュばかりしています(研究をしろ)が、ちょっとでも興味をもったらリンゼイをポチってください。僕はリンゼイが済んだらコムリーにいきます(研究をしろ)。

   なお申し添えますが、言語類型論をやっても個々の言語が出来るようには全くならないと思います。