MMTに入門した

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話題の理論に入門してみました。当方経済専攻でもなく、特に深い動機があったわけでもないし、政治的なあれこれの関心があったわけでもないです。

というよりは、僕はとにかく人間や社会における政治性がとにかく嫌いで、可能な限りそうした政治性や歴史性が脱色された機構的おもちゃが好きなのです。歯車とか。ピストンとか。経済の知見を得るとしたらなるべくそういう形の知識がほしい。物語性は敵であり総合性も敵です(えっ)。

そういう気持ちもあり、流行り物は好きではないのですが、流行り物だから拒否するというのもそれは不毛な逆張りだし、政策パッケージとしてのMMTとしてではなく、貨幣理論としてのMMTなら多少なり楽しめて得るところがあるのではと思ったのでした。

で、結論からいうと、得るところはありました。👆の本はだいたい米国事情ベースなのでそのあたりはよくわからなかったのですが、 貨幣理論としてのMMTの、少なくとも原理的な面はとてもシンプルで、

主権不換貨幣の総量は政策上の自由に操作可能な変数であって制約や目標ではない

というか、コレ以外の点はごく常識的で、実質的にマクロ経済の財政上の境界条件だけを修正したもので、 理論上は異端でもなんでも無い気はします。その境界条件だけ取り上げるとまた怪しく見えてしまうのですが...

というわけで、以下感想がてらに素人なりの理解を記しておきます。

貨幣価値 is 何

正直なところ、本当に内容は先の一行で説明が終わってしまっているのですが、 もうすこし踏み込むと、MMTは次のことを説明するように見えます。

貨幣とは何でその価値は何で担保されているのか?

通常、商取引で貨幣を支払うということは、取引商品とその貨幣が価格的に見合っているからこそ行われるのだと考えられます(その"価値"とは何で、どう測るかという問題はありますが、とりあえず取引主体が「交換してもいいかな」と思うことだとします)。すると、貨幣にはなんらかの価値があることになりますが、それはなにか?

AがBから財Xをn円で購入するとき、少なくともAのn円の価値はX以下に、またBはn円の価値をX以上に見積もっていないと成立しません。価値観の相違を許したとしても、少なくともBは貨幣価値を理解していないといけないことになります。つまり、Bはn円になんらかの価値を見出しているわけですが、それはなにかということです。

ここで話がめんどくさくなるのが、貨幣の通用性で、例えばAは、貨幣はBにとって価値があるなら、Bの財を引き出すためのトークンとしてAにとっても貨幣の価値がつきます。同様に、貨幣がCにとって価値があるなら、Cの財を引き出すためのトークンとしてBにとっても貨幣の価値がつきます。

つまり、「自分以外の誰かにとって価値がある」という性質はそれ自体が貨幣の価値の"可能性"の分枝に含まれるわけです。これはなんか、集合の帰納的定義みたいなやつで、通用性は貨幣の実効的な有用性の幅を広げるわけです。通用性が広がると、たとえばn円の貨幣は何時でも財Xと交換できるので、n円のほうが嵩張らないのでn円で持っておくか、ということができるようになります。つまり、その貨幣をユニバーサルな貯蓄として使うことができるようになります。

じゃあ、そうした再帰的な有用性の波及"だけ"で、貨幣が貨幣として機能するだろうか?と考えると、これは微妙な話になってきます。というのも、そういう意味の価値だけでいいなら、これは完全に流通コミュニティの価値観の安定性の話になってしまい、また実際そうして成立するトークンは存在して、暗号通貨とかはある意味そういう例に見えます。あれは一切の兌換性ももたず、アルゴリズム的に示量性が保証されていて、限定的ではあるのもの市場が存在します。ただし、ドルや円だとかの法定貨幣にくらべて、ビットコインボラティリティ(変動の大きさ)は数十倍から数百倍あるわけで、資産や貯蓄として使うには非常に不安定です。さらに、通用性も非常に小さいです。暗号通貨を直接受け取ってくれる小売店は、法定通貨のそれとは比べ物にならないくらい少ないです。これはまさしく貨幣価値の担保がない事を反映しているように見えます。何の使いみちもないレアメタルを取引しているのと同じです。金のほうがまだ工業的使いみちがある分なんぼかマシかも。

租税貨幣論による担保

そう、法定貨幣、これが違いなのです。貨幣価値を担保するには、それに何らかの財なり権利が付与されているとするのが一番明快ですが、MMTはここで租税貨幣論をとります。つまり租税支払いに使える唯一のトークンなので、貨幣には価値がある(このことが法で定められているので法定)。何らかの政体の及ぶ地域に在住していれば、なんらかの租税が課されます。その支払いを怠ると、最終的にはなんらかの権利が剥奪されます。つまり、徴税状態は人権の次くらいに根源的な負の価値があり、それを解消できる(しかも貯蓄しておけば将来にあたってずっとそれができる)トークンである法定貨幣は正の価値があります。

ということで、貨幣それ自体には、租税支払いトークンという価値担保があることになります。

この租税支払いトークンとしての貨幣は、同時に債務証書としてみなすこともできます。つまり、権利証書のことですが、例えば借金手形は、「私phykmは何時までに何円返します」という証券のことで、それは言い換えれば「この券の所有者は何時以降phykmから何円もらえる」という権利であり、それがこの紙切れの価値を担保しているわけです。

一般に債務証書は、場合によっては不渡りを起こしえます。債務不履行というやつで、こうなった場合は、証券価値は消しとんでしまいます。通常はそうした証券の市場取引価格に、その分のリスクプレミアムが上乗せされるわけです。

では、貨幣を債務証書だとみなすとき、その内容はなんでしょうか? そうした契約書が存在するわけではないですが、法定貨幣故に、実質的には租税支払いを二通りで言い換えたものになり、

  • 債権として: この券の所有者は、本券を債務者政府に手渡すと、租税義務のうち額面分を減免される
  • 債務として: 債務者政府は、本券を受け取ることで、所有者に政府が課した課税義務のうち、額面分を減免する

ということになるわけです。すると、この場合、法定貨幣の「債務不履行というのがどういうことか理解できます。つまり、

  • 法定貨幣の債務不履行:租税支払いを指示通りに法定貨幣で完了したにもかかわらず、脱税とみなされて捕まる

という状態がそれです。まともに税制を運用している国家であればありえない状態であることが理解できます。

また、直接債務不履行を起こさなくても、貨幣価値の可能性が消滅するという状況がどんな場合かを考えることができます。(ここでは一旦為替:異なる貨幣間の相対価値のことは考えないとします)。つまり、租税による貨幣価値担保が消失することで、

  • 完全な無税状態になる、または税制が設定されているが、強制力がなく、脱税が極めて容易である

という状態になります。これもまともに税制を運用している国家であればありえない状態であることが理解できます。 (もちろん、税制が消滅しても、それは貨幣価値の担保の可能性の一つが消えるだけなので、通用性のみによる価値は残ります)

税制が消滅とまでいかなくても、例えば減税や増税を行ったときにどうなるか、ということを考える事もできます。租税回避は、消費主体の選好のなかでもかなり強い傾斜がかかっているだろうことは予想できます。なにせ権利が奪われるので。

となると、消費主体の予算が一定であれば、税を重くすると、それだけ租税回避(支払い)に所得が食われ、それ以外の消費行動に割り当てる貨幣が減ります。すると、他の財を消費できなくなるので、需要が下がり、取引価格は落ちます。つまり、デフレ圧となります。逆に税を軽くすると、事実上可処分所得が増えるので、この逆が起きるわけです。ちなみに増税した場合、物価(実物財あたりの貨幣量)は下がりますが、同時に貨幣価値(単位あたりの貨幣そのものの価値)も下がっています。なぜなら、「税を回避する」という固定価値を獲得するのに必要な貨幣が増えているからです。

このあたりは市民的直観にも敵ってますね。なお本国はデフレなんだから減税しろという声も虚しく0->3->5->8->10と増税の一途をたどっています。

無限に刷れる理由

さて、貨幣価値が担保されたので、政府は安心して貨幣を刷ることができます。

何故か? 貨幣価値を担保している政府の債務とは、ゼロ円以上の税制を敷かれている前提で、 「発行貨幣による租税支払いを受領する」ことでした。 これは無限に履行できます。つまり、 無限に「借金(債務証書の発行)」をして、その「履行(租税支払いを受け取る)」ができます。 具体的には、支払ったその人を支払い済みリストに追加し、受けとった貨幣をその場で破り捨てるだけです。履行済み債務証書なので。

このあたりは「税は支出のための財源」という考えが間違っていることも示しています。すなわち、 貨幣価値の担保は「政府への租税支払い券」なので、それを履行した段階で貨幣は本来消滅するはずです。 政府の会計で、租税収入を支出に回す、というのは、履行済み債務証書を印紙代がもったいないからと言って再び使うようなものです。普通に考えれば支出にあたってすべて新規発行すればよいのです。一部twitterのMMTerの方々が、「税収とはお金を潰すこと」みたいなことを言っていますが、これは債権証書として考えれば文字通りの意味です。

おそらくMMTの反直感的な点は、貨幣という、日常的には当たり前に価値のあるものが、無限に刷れるわけがない、という気持ちだと思います。しかし、ここで見たように、実際には貨幣を債務証書とみなすことができ、さらに政府はちゃんとこの債務を履行しているわけです。そしてその履行の総量には物理的制約がない。これが無限に刷れることの理由です。(逆に言えば国家消滅の危機みたいな、税がなんぼのもんじゃいみたいな事態になれば、貨幣価値担保も怪しくなる)

貨幣以外にも、自国通貨立て国債も任意の額発行できます。これも不履行になりえません。あえて政府が償還を拒否すれば起こせますが、そんな馬鹿なこと(ちょっと見てみたくはある...)をするくらいなら貨幣を刷るか、借り換えるでしょう。自国通貨なので満期償還時に必要なだけ刷ればよいからです。というか、国債というのは、実質的には時限と利子がついた貨幣のことです。利子以外の部分は、「印刷したこれは貨幣だったのか否か」の判断を満期償還時まで遅らせることができる貨幣です。

ということで、

  • 主権(発行権と徴税権をその政府が持っている)
  • 不換(他の財や他国貨幣との兌換性を政府が保証しなくてよい)

な貨幣は、 その政府にとって、制御可能な変数です。制御可能とは、 政策によって自由にその総量を調整できるということです。 例えば増税するか、支出を絞れば、貨幣総量を減らせます。逆に減税する(恒久的無税にまではしない)か、貨幣を刷って支出すれば、貨幣総量を増やせます。貨幣総量を増やすことを財政赤字と呼び、貨幣総量を減らすことを財政黒字というわけです。

そして貨幣は、こうした任意の制御が可能な"唯一の"財です。

つまり、貨幣は自由に操れるが、それ以外の実物財が操れる保証はないのです。

このことはケルトン本でも何度も強調される重要な点ですが、 政府は国民によい生活なり環境なりを提供するために色々やるわけですが、 例えば、うまい飯を食わそうとしても、農地と農業従事者が無ければどうしようもなく、 ハイテク機器でIoT!などとのたまっても、ハイテク産業の工場と技術者が無ければどうしようもない。 情報人材!介護人材!と叫んだところで、教育された人材、または教育インフラが整ってなければ、出てきようがありません。 かと言って、当然政府がそれを持っているわけでもありません。 したがって、これらは間違いなく示量的な財に関するビジョンですが、政府はこれを直接操作できる保証がありません。

しかし、主権をもつ貨幣だけは制御できます。税制を変更し、貨幣を印刷するか、租税支払いを受領すればよい。 そして、少なくとも国内に関しては、その貨幣の需要は租税の存在で担保されているため、 国内市場にある財に関しては、刷った円でそれを購入できます。もちろん政府が消費するわけではないので、 それを然るべき必要な場所に変換して配置します。つまり実質的には支出というのは国内の財の再割当てのことです。

つまり、もし政府が財Xが沢山欲しいという場合、国内調達する手段としては、

  • Xの生産部門に支出(投資)して生産力を上げてもらう
  • 生産力が上がるのを待つ
  • Xを購入する

財Xがもういらないとあれば、

  • Xの購入をやめる
  • 必要に応じて労働者の再就職を支援する

みたいな手続きを踏む必要があるわけです。つまり、 貨幣をどのタイミングどこに割当て、どこから取り、その結果実物経済に何が起きるかだけが問題であり、 その収支は問題にはならないことになります。

ということでケルトンは著書のなかで「本当の制約は実物財の方だ」という旨のことを何度も強調しているわけです。

貿易を考えると、もう少し政府が打てる手段は変わりますが、主権不換貨幣の総量をコントロールすることについて制約が無いことは同じです。自国通貨換算で貿易赤字(相手国が自国貨幣保有を増やしている)であっても、だからどうということにはなりません。むしろ自国の公的決裁にしか使えないトークンをもらって実物財をよこしてくれているのでありがたい話とも言えます(とはいえ輸入目的で無限に刷れば自国通貨安になって輸入が持たなくなるため、それは考える必要がある。相手国にとって、この貨幣の価値は自国経済の財を購入できるという点なので、例えば貨幣を刷って輸入すると同時に、自国産業にも投資して強化する等)。

つまり、財政の主要な課題というのは、政府が赤字かどうか(支出と税収の差額)ではなく、

  • 税をどのくらい課すと、実体経済にどのくらい影響があるか
  • 支出をどこにどのくらい行うと、実体経済にどのくらい影響があるか

という点(のみ)です。もしここに望ましくない効果が予想されるなら、それは調整する必要があります。よくMMT批判として出てくるインフレ懸念もこの一部です。例えば、民間需要がある財Xを政府が(例えば輸出のために)買い占めたりすれば、供給が不足して価格が上がります。またありえない話ですが、支出において一切財を購入することなく、一人当たり1億円を配るみたいなことをすれば、それだけ価格も上がるでしょう。こんな馬鹿げた額を唱える人はいませんが、これが10万とかであれば、現にこの間の特別給付で実施され、結果として大した問題もなかったということになります。

不換貨幣の発明

こうしてみると、主権不換貨幣というのはものすごい発明に思えます。

まず不換性ですが、以前は幾つかの通貨は金と貨幣の兌換性があったわけですが、これはどういうことかというと、政府が金と貨幣のコンバーターとして振る舞う必要があるわけです。これが市場に任されていれば、価格変動によってどこかで均衡するはずですが、兌換性を保証してしまうと、 「物理的に異なる2つの財のコンバーター」という、そのものからして物理法則に反する機能を政府や銀行が押し付けられてしまうのです。 物理学のアナロジーを考えれば、これは無理筋だと想像できます。例えば「1リットルあたり1ジュールで交換します」みたいな機械が破綻をきたすのはほとんど明らかでしょう。だから、物理法則がその互換性を保証していないような財に対して、兌換としてはいけなかったのです。あるいは、その総量を常に把握して管理する必要がある。

それから主権ですが、貨幣を刷っても、それに需要がなければ広く使われることはないわけです。兌換性はそのわかりやすい担保でしたが、物理的に無理がありました。また通用性と示量性だけでは暗号通貨のように限定的にしかならないし、価値も不安定になります。そこで、租税に関連付けることで、行政の届く範囲において広く普遍的な需要を喚起でき、決裁・貯蓄手段として普及させることができます。この貨幣の債務は税の受領という抽象的な行為で行われるため、履行は無制限にできます。つまり、政府が発行することについて特に制限はない。物理学のアナロジーで言えば、全ての熱力学系に、貨幣という新しい示量変数を追加するようなものです。政府はこの貨幣の熱欲を持っています。 不換なので別の財との交換を政府が求められることもなく、それは市場が勝手にやります。 常に偽造を取り締まるというコストは掛かりますが、貨幣自体の物理的価値がほぼないことと合わせて、政府は貨幣総量を自由にコントロールできるようになります。

そうすると、どうやってこのシステムが成立したのか?という疑問も出てきます。また、主権不換通貨がよくできたシステムなら、とっととそうでない国もそれに移行すればよいのではないか?

これは歴史的経緯や国際関係が効いてくるはずで一概には言えないでしょうが、例えば国内産業に乏しく、生活必需品の大半を輸入に頼っているような国の場合、そもそも独自通貨を発行しても、支出先が無い(受け取ってくれる自国産業がない)ということはありえる気がします。すでに生活の大半が外貨で回っている場合に、新規貨幣に乗り換えさせるに十分な需要を喚起するには、租税を用いても難しいかもしれません。その意味ではいま現在このシステムを存続させている国はある意味幸運かもしれません。